としさんのブログ(奈良)

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zoom RSS 明治維新という過ち

<<   作成日時 : 2015/11/14 17:24   >>

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私は、以前から日本の歴史には、興味を持ち20才代の頃から司馬遼太郎の作品を沢山読みました。その中で漠然と疑問に思っていた事が幾つかありまして、
例えば、坂本龍馬の事を最近は、竜馬という風に書く人が多いが、どちらが本当なのかなあ、あるいは吉田松陰というのは、密航を企てて失敗したり、老中暗殺を企てて果たせなかったり、何を為した訳でもないのに何故、あれほど持て囃されるのだろうか・・・と。

この本を読んで全てが、スッキリしました。
実に私の描いていた歴史観を完全に180度引っくり返してくれたのが、この本だと思います。読めば大抵の人は、驚き、目から鱗が落ちる。そんな本だと思います。

要点のみメモしておきましょう。

司馬史観に反論
司馬遼太郎という人は、吉田松陰、坂本龍馬、勝海舟が大好きなのだ。特に彼の書いた「竜馬が行く」は、フィクションである。だから龍馬でなく竜馬と書いている。彼らは小説に著されたような大人物でも何でもない。司馬作品を読んで、一般の人は麗しき誤解をしている。司馬遼太郎は、明治維新至上主義″の人で、昭和初期の20年のみが美しい日本民族の歴史の中で連続性を持たない異常な時期だったと言う。何故、この時代だけ都合よく例外扱いするのか、その点には全く同意できない。

官軍教育
私達は、小さい頃から「明治維新は、日本が近代化を果たし、植民地化を回避する為の無条件の正義だった」と教わってきている。これは後になって長州・薩摩が都合よく作り上げた歴史であって、官軍教育だったのだ。

明治維新
御一新″のことを明治維新というが、これは昭和になって昭和維新が燃え盛った事により翻って一般化した言葉である。起こしたのは薩長の下層階級の成り上がり者と、下級公家の岩倉具視で、「尊皇攘夷」を倒幕の大義名分として、政権の簒奪を狙ったものに過ぎない。そもそも尊皇と佐幕は何ら矛盾するものではなく、当時は殆どの人が「尊皇佐幕」であった。薩長は、尊皇といいつつ偽勅を発行、御所に発砲、錦旗を偽造、天皇を長州へ拉致する計画までしていた。政権奪取後は、攘夷どころか手の平を返して西欧文明にいっきに傾斜している。討幕軍の所業は実に残虐なもので、武士的倫理感から大きく外れるものであった。黒駒勝蔵らの赤報隊世良修蔵の所業、二本松戦争や会津戦争の冷酷さ等を見ても如何に論理も倫理観もない集団であったか良く分かると思う。

明治新政府
倒幕を果たし、政権を簒奪したものの長州・薩摩には、倒幕後の体制について何らの展望も構想も持っておらず、混乱と腐敗を極めた。彼らが取った神道国教、祭政一致の方針による廃物希釈は、西欧の如き一元主義を誤って取り入れる結果となり、後々に大いなる禍根を残すこととなった。

勤王の獅子
倒幕に走った若者達を勤王の獅子と呼ぶが、彼らは桂小五郎29才、高杉晋作23才、久坂玄瑞22才、吉田松陰21才。現代との違いはあるとしても何れも未熟な若造に過ぎない。長州はもともと藩主の力が弱く、抑えが効かない傾向があり、荒っぽく、過激で、ヒステリックな跳ね上がり者達を、藩も持て余したのだ。

思想的拠り所
彼らの思想的拠り所は、「水戸学」にある。水戸黄門で有名になった水戸光圀という人物が、実はトンデモナイ人物でそもそもの悪の元凶。家老を試し斬りにしたり、28万石を36万石と見栄を張ったり、「大日本史」編纂に巨費を投じたり、ここから水戸藩の財政が逼迫し始めた。以降水戸藩には名君が一人も出ず、幕末に登場した水戸斉昭も例に漏れず気性の激しい厄介な人物だった。藩内は財政が極度に逼迫している事から、ヒステリックで観念的、リアリズムの欠如、非論理的な風潮が支配し、藩内で血で血を洗う粛清合戦を繰り返すなどテロリズムを生む温床となっていた。そこに藤田東湖という思想家が現れ「尊皇攘夷」に向けて無責任な煽動を行った。水戸は光圀以来、公家との縁組を盛んにしていた事から尊皇の意識が高かったものであるが、長州の吉田松陰もこの影響を大きく受けた一人である。

吉田松陰
藤田東湖の影響を受けた単なる田舎者の悪ガキ。彼は、密航失敗、老中間部詮勝の暗殺を計画など企て、仲間内では知恵が回るのでリーダーとなってテロを煽動した。何度注意しても止めないのでしょっぴかれたという事。全く藩としても手を焼いた困り者であった。
彼を思想家といい教育者という向きもあるが、松下村塾は、もともと叔父の玉木文之進が開いた塾であって、松陰は教えるというより跳ね上がりのダチが集まって談論風発、盛り上がっていたに過ぎない。何故、吉田松陰を神の如くに世間が崇めるかと言うと、山縣有朋が、維新後に自己の拠り所が必要となり、勝手に祭り上げたことによる。松陰は山縣の事をあまり知らなかったようだ。

高杉晋作
良家のボンボンでチンピラの兄貴分格だった。井上聞多が彼のパシリをやり、伊藤俊輔が井上に付いて回っていた。奇兵隊を身分の差を無くして人材を登用した近代化の走りのように言うが大間違い。奇兵隊ほど身分差別をしたものはなく服装も身分により異なっていた。単なるならず者集団のゲリラ部隊に過ぎなかった。

坂本龍馬
司馬遼太郎の書いた竜馬は、全くのフィクションである。長州・薩摩の外様二大雄藩が、一介の脱藩浪人を全面的に信用し、藩の命運を託する等、あり得ようはずがない。彼の後にグラバー商会があり、その後に大英帝国が控えているからの決断であった。彼は薩摩が買う武器を長州に回して儲けようとしたに過ぎない。日本侵略を企図していた国の手先グラバー商会の、そのまた手先であったという事である。

歴史のIF
もし薩長による倒幕運動がなく、徳川幕府による政権が続いたらどうなっていたのか。
江戸は単なる封建社会でなく高度な江戸システム″であり、倒さねば近代化できないという訳ではなかった。何故なら、幕府も薩長と同様に開国、富国を目指していた。ペリー来航以前から幕府は外交経験を積んでおり、何も黒船来航により、あたふたして開国した訳ではない。
(*)1842年「薪水給与令」を出し実質的に開国しており、1853年にペリーが来航している。
老中・阿部正弘が登用し育成した優秀な官僚達によってイギリス型公儀政体を作り、小栗上野介の目指した郡県制を敷けば、長州・薩摩のような軍国主義国家でなく、スイスや北欧諸国に類似した独自の立憲国家が建国出来たのではないかと思える。


明治維新の過ち
「維新」という言葉には、論理を否定する暴力的な意味がある。長州・薩摩のテロを手段とした明治維新という過ちがなければ、少なくとも昭和初期の歴史は全く違ったものになったであろう。薩長による倒幕プロセスに於いては、尊皇と言いながら、明らかに天皇を軽んじており、天皇の政治利用はここから始まっている。昭和維新の精神的支柱は明治維新を美化する北一輝の思想で、この一元主義の皇国史観が軍部独裁を招く結果となった。長州軍閥が幅をきかせた帝国陸軍の暴走や、五一五事件、二二六事件などテロリズムの頻発は、明らかに長州テロリズムの影響を引きづっている。江戸末期の政権が、一連の維新運動の処理を誤ったことが、70年後の我が国を対外膨張主義にし、結果として松陰の唱えた青写真通りの大東亜戦争へと突き進み、国を破滅に導いてしまったのだ。明治維新という一連の騒動は、大いなる過ちであったと言わねばならない。

結論
司馬遼太郎は、昭和初期の20年のみが美しい日本民族の歴史の中で連続性を持たない異常な時期だったと言うが、むしろ昭和初期の20年こそが、薩長による明治維新の結実した結果と言うべきであろう。その点司馬遼太郎の明治維新至上主義″には大いに疑問を呈する次第である。

★★★★★(文句なし星5つ。歴史は多面的に見る必要がある)

秋の実のリースです。

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