フォーク「神田川」のこと

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先日、「シクラメンのかほり」の事を書いたので、今日は70年代フォークの代表作「神田川」の話です。


この曲は、作詞家・喜多條忠(きたじょうまこと)の実体験をモチーフにしたもので、1973年に発売されると、空前の大ヒットとなり、最終的には200万枚以上は売り上げただろうと言われています。


たまに「四畳半フォーク」と揶揄されることもありますが、当時20才台の人達の間で幅広く支持されたことは間違いありません。


若者の刹那的純愛を綴ったこの曲を聞くと、暗いけど、一途に、青く、貧しく、甘酸っぱい雰囲気が、ひしひしと伝わって来ます。


当時、20才代で、この曲を好んで聞いた人達は、今や60才台になっているでしょう。

今も、時折テレビのナツメロとして流れてくるたびに、当時を思い出してジーンと胸を熱くしている人達が、多いのではないでしょうか。


調べてみると「神田川」が生まれた時の様子は、次のようなものだったそうです。



当時、放送作家をしていた喜多條忠へ南こうせつから「作詞をして欲しい。急ぐから今晩中に作って!」という電話がかかってきた。


「今晩中とはまたご無体な!」とは思ったが、仕方なく自分自身の学生時代のほろ苦い想い出を、30分ほどで新聞のチラシの裏に書き留め、公衆電話へ走って、電話で読み上げた。


すると電話を受けた南こうせつは、電話を受けながら、その場でメロディーが出来てしまった。


「まあ、この曲は、この歌詞を待っていたんですね。出会うべくして出会ったて事でしょう」とは、南こうせつの言。


この曲が発表されるや深夜放送で、リクエストが殺到。

1973年9月にシングル盤が発売されると、いきなり160万枚という爆発的な大ヒットとなった。


因みに、1番の歌詞の「いつも私が待たされる」という歌詞は、いつも喜多條が銭湯にいた鯉を眺めていたので、いつも相手の女性を待たせてしまった。


2番の「24色のクレパス買って」という歌詞については、

クレパスが商標なので、NHKからクレヨンに変えるように言われて、その年の紅白歌合戦出場を辞退した。


また当時は48色も50色もあったが、身の丈に合った24色にした。

(明日香村のクレパス展に、その旨の喜多條忠氏の手紙が展示されていた)


当時、この曲は一世を風靡し、1974年には、草刈正雄、関根恵子主演で映画化までされている。地方のファンは、神田川ってどんな素敵な川だろうと見に上京して幻滅、落胆して帰った人も多かったとか。


兎に角、当時の実際の神田川は生活排水で汚れに汚れ、悪臭漂うドブ川だったから。

最も、今は水質が極端に改善して鯉やフナも生息できるようになっていることは、付記しておく必要があるだろうが。


神田川は、井の頭池から都内を流れて隅田川へ合流する川で、中野区・末広橋近くの公園には、「神田川」の歌碑があるらしい。


ただ実際の舞台となった場所は、もっと下流の豊島区・戸田平橋付近で、


三畳一間の小さな下宿」は、豊島区高田3-7-17「千登世旅館」の隣あたり。


二人で行った横丁の風呂屋」は、

新宿区西早稲田3-1―3にあった「安兵衛湯」(既に廃業)だったそうだ。

きっと昔、堀部安兵衛が、高田馬場で仇討の助太刀をしたあたりと思われる。


思えば70年代というのは、フォークソング大流行の時代であった。

学生運動に明け暮れた抵抗の時代が過ぎ、虚脱感というか、世の中全体に目標を失った退廃的雰囲気が溢れ、「四畳半ブーム」やら、上村一夫の「同棲時代」なんて漫画が売れてもいた時代だ。


そんな時代背景が、眞にこのフォーク「神田川」を求めていたとも言えるだろう。



ずっと以前から疑問に思っている事が1つあります。

1番、2番の歌詞に出て来る「ただ貴方の優しさが怖かった」というのは、どういう気持ちなのでしょうか?

未だに分からないのですが。


私は、幸か不幸か「同棲」の経験がなく、平平凡凡の人生を歩んでここまで来てしまいましたが、若く青い頃に、「ちっとは無茶をしておいても良かったなあ・・・」なんて思う事もあるんですよねえ・・・・・。

皆さんは、どんな青春時代を過ごされましたか?

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